園長先生のコラム

コラム 【 2020年11月号 】 「 一番大切な掟 」

2000年前のユダヤの人々は、613もの掟を守るように教えられていました。
そのために小さな掟にとらわれて、肝心なポイント、一番大切な掟を見落とすということが、たくさんありました。

イエスさまはそうした中で、たとえば安息日に病人の癒しや労働をしてはいけないと定められていましたがあえて行うなどして、何が大切なのか、どの立法が本当に大切な掟なのかと教え続けました。
イエスさまは旧約聖書の数々の教えを2つにまとめて言い表したのです。

第一が「神さまを愛しなさい」。
第二が「自分のように隣人を愛しなさい」ということでした。
何より神を愛しなさい。これひとつだけでもむずかしいことです。
なぜなら実際に私たちは、多くの神さま以外の像を大切にしていることがありますお金とかこの世での評価とか、そういったものにとらわれ続けています。

しかし何より神さまを愛さなければならないと指摘されるのです。
神さまを愛するという縦の関係だけでは、不十分です。
「隣人を愛さなければならない。それも自分を愛するようにです」ここもなかなか難しい。
多くの人は言います。「私は欠点ばかりの自分なんかとても愛せません」そんな私が、自分を愛するように人を愛せと言われて無理です。
日本人の場合は特に、この「自分を愛する」ことが難しいようです。いつも他人と比較される。そういうことに慣れてきたからでしょうか。
でも自分を愛し、大切にすることはとても大切なのです。

これはただの利己主義、自分中心主義とは違います。
夏目漱石の「わたしの個人主義」という本にもその思想が語られています。
夏目漱石は「自分がかけがえのない大切な存在だからこそ他人もかけがえのない大切な存在と言える」と言っています。

「神を愛しなさい」なぜなのでしょうか。
それは神さまが私をかけがえのないものとして大切にして、愛してくださったからです。このつまらない私を、生まれる前から愛し、価値を認め、私に命と言う大きな恵みを下さったからです。そして私が罪を犯して、神さまから大きく離れてしまっていたとき、私が神さまなど何も意識できないときですらすでにそのときから、この私の罪を担って、身代わりになって帳消しにしようとイエスさまが十字架にかかってくださったからです。

この神さまの深い愛があるから「神さまを愛する」のです。
そのような神さまの絶対的な愛に答えて、私たちは神さまを愛するのです。
そしてそのような普通に考えたらありえないほどの神さまの愛を受けている現実、ありがたきものとして命を与えられている、このことに深く感謝するべきなのです。
そしてそれほどまでに神さまからの深い愛に包まれた私だから、もう人を恐れる必要はないのです。

何であれ、この私は神さまから愛されているのですから人と比較する必要も、人と競争する必要も、力争いする必要もないはずです。
どうして人と比べ、競う必要があるでしょうか。

その深い自己愛、自分を肯定する感情をもとにして、今度は人を肯定することもできるようになります。この神さまの深い愛は、自分だけのもののはずはないわけです。同じように、どの人も愛されているはずです。
私から見たら、性格が合わずに、やりにくくて、いつも競ってしまおうとする相手だけれど、いやこの人も、同じように神さまから愛されているのです。この人のためにもイエスさまは十字架にかかったのです。そのように考えれば、そのことを深く感じ取るときに、信じようとするときに、どんな相手であれ、その人を受け入れ、受け止め、ついには愛していくのです。
神さまを愛し、自分を愛し、隣人を愛する。
実はこれはまだ旧約聖書に限った愛の姿です。イエスさまの示した新約聖書の愛はどういうものかと言えば、隣人だけでなく敵をも愛すると言うことが含まれてきます。こうして新約聖書ではさらに愛が徹底されていきます。
でも、ともかく今日は、自分を愛してくださった神さまを認め、神さまを愛したいと思います。
そしてまた同じように神さまが愛した人を認めるところから、人を愛することのきっかけを、見つけ出していくようにしたいと思います。

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