園長先生のコラム

コラム 【 2018年11月号 】 「 ウイルス対策 」

朝夕肌寒く感じるくらい涼しくなり、秋本番となりました。
収穫の秋とも食欲の秋と言われます。おいしい季節とも言えるかもしれません。
「天高く馬肥える秋」肥えるのは馬だけで良いのであって、自分はむしろ痩せるくらいの秋にしたいものです。

さて、昨日津市私立幼稚園認定こども園協会の設置者園長会がありました。
その中で「ノロウイルス」はじめ、感染力の強いウイルスにどのように対処するかの意見がでました。制服を採用している幼稚園の園児の嘔吐物で汚れた場合、どうしているかなどの話し合いがされたのですが、結局11月の園長会で公衆衛生に詳しい専門家に来てもらって、お話を伺うことになりました。
もちろん、多くの病気の予防に言えることは、徹底した手洗いとうがいの励行は大切であることは言うまでもないことです。
問題は、もし感染力の強いウイルスに感染してしまって病気が発症した場合の危機管理と対処が、その後の感染拡大を最小限に抑えるカギとなるわけです。
もちろん、感染拡大を食い止める努力は、最大限しなければならないことは当然ではあります。
ところが注意しなければならないのは、そこに病にかかった人に対する配慮を忘れると大変です。
ビル・キークパトリックという牧師は、彼の著書「エイズ 痛みの共有(Sharing the pain)」の中で、「キリスト者にとって愛以外の倫理は無い。教会にとって基本的倫理は、裁かない愛である」と言っています。
エイズという特殊な恐ろしい病気に限らず、全ての病にある人々に対して痛みを共有していくことこそ、大切といえるではないでしょうか。
以前、京都の幼稚園園長時代にO-157(出血性大腸菌)に感染した子どもが、学校でいじめにあったことが問題になりました。
病になった苦しみの上に友人から排斥され孤独の苦しみにあったり、差別されるようなことがあってはなりません。
「自己管理が出来ていないから病気になったのだから、自己責任である。だから自業自得」という人がいますが、病になりたくて病になる人はいません。原因はともかく、要はいかに早く感染拡大を防ぎ、病の発症者の治療にあたるかが問題なのだと思います。

さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。
弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」
イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」

ヨハネによる福音書 9章 1節~3節

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・・ 年主題聖句 ・・

「愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。」
~ ヨハネの手紙Ⅰ 4章11節 ~

聖書の愛という言葉には2種類あります。「神の愛」「人間の愛」前者はアガペー(ギリシャ語)、後者をエロス(ギリシャ語)神の愛は見返りを求めない、只々一方的に与え続ける愛を指します。後者の人間の愛も決して悪い愛ではないのですが、見返りを求めてしまう人間らしさを持った愛です。だから失恋したときなど心に痛手を受けますよね。神の愛は人間の中にも存在します。わが子を思う親の愛などは見返りを求めていません。愛された子どもは人を愛することができます。私たち人間はすでに神さまから愛されているのですから、互いに愛し合うことができるはず、とヨハネは言っているのです。

・・ 聖句と今月のみことば ・・

「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。」
~ 【新共同訳】ヨハネによる福音書15章1節 ~

イエスさまはよくたとえをもって話されますが、この聖句も有名な箇所です。旧約聖書ではイスラエルは繰り返しぶどうの木、或いは神さまのぶどう畑として描かれています。ぶどうの木は実際にイスラエル民族の象徴となっていたのです。イエスさまは正真正銘のぶどうの木と述べられています。旧約聖書はそのぶどう木が荒れ果ててしまったことが強調されていることに対して、ここでは救いはこのぶどうの木(イエスさま)に繋がっていること(信仰)にかかっているというのです。

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