園長先生のコラム

コラム 【 2018年4月号 】 「 差別をしない 」

聖ヤコブ幼稚園の園児の皆さん、ご入園、ご進級おめでとうございます。

今年から聖ヤコブ幼稚園では、正式に園児のお名前を呼ぶとき「〇〇さん」とすることを教師たちで確認しました。
もとより、男子と女子の差別はしませんが、僕のような頭の固い爺さんはついつい「男の子」はこうあるべきだとか「女の子」はこのようにしないといけない、というような概念を口にしてしまうことがあります。厳に慎みたいと思います。
何千年もの間、女性は常に男性中心の社会構造から虐げられてきました。進学や職業の選択にも、制限をかけられることもありました。僕自身も女性に対して差別や偏見をしていた子どもの頃が、今となってはたとえ真理を知らなかったとしても、罪の意識はぬぐえません。
何より、母に対しての青少年時代の暴言や行動は、筆舌に尽くし難く天国に行ってから本当に謝罪したいと思います。
女性が司祭になれるようになったのは、つい40年前のことです。僕が司祭になったころ、まだ日本聖公会(聖ヤコブ教会の教派)には執事はいましたが、司祭はいませんでした。ちなみに、ローマカトリック教会や東方教会では今も司祭だけでなく、助祭(執事)もいません。
40年のときを経て、やっと近頃数人の司祭が教区に誕生してきました。女性を聖職にしてはいけないという考え方の一つに「イエスさまのお弟子さんは12人いますが、すべて男性です」というのがありますが、2000年前のイエスさまの時代当時としては、弟子に女性を登用することは到底一般的に受け入れられる状況にはなかったでしょう。
むしろ、イエスさまのお考えは、無理をして組織の幹部に女性を登用するというような政治的行動をとるのではなく、常に社会的に弱い立場にいる小さな人たち、つまり、具体的には女性や老人、病人や障碍者、そして子どもたちに寄り添う生き方をされていたのだと思うのです。
教会の牧師にならなかったら、きっと僕はいろいろな差別や偏見に気づくことなく生きていただろうと、神さまのお導きに本当に感謝しています。
昨日も京都へ重要な会議のため出張しました。いろいろな立場の同労者(キリスト教の聖職者)がいろいろな意見を出していました。
ただ、僕が学んだことは「自分の罪の深さは案外自分自身では正確に測れないものだ。」と言うことです。

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・・ 年主題聖句 ・・

「愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。」
~ ヨハネの手紙Ⅰ 4章11節 ~

聖書の愛という言葉には2種類あります。「神の愛」「人間の愛」前者はアガペー(ギリシャ語)、後者をエロス(ギリシャ語)神の愛は見返りを求めない、只々一方的に与え続ける愛を指します。後者の人間の愛も決して悪い愛ではないのですが、見返りを求めてしまう人間らしさを持った愛です。だから失恋したときなど心に痛手を受けますよね。神の愛は人間の中にも存在します。わが子を思う親の愛などは見返りを求めていません。愛された子どもは人を愛することができます。私たち人間はすでに神さまから愛されているのですから、互いに愛し合うことができるはず、とヨハネは言っているのです。

・・ 聖句と今月のみことば ・・

「「子供たちをわたしのところへ来させなさい。」…そして子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。」
~ マルコによる福音書10章14~16節 ~

子どもの心の純粋さに、私たちはときどき驚かされるものです、その前になぜこのような場面が起こったかと言うと、有名なラビ(ユダヤの世界の教師)に、自分の子どもを祝福してほしいという親たちが多数押し寄せてきたのです。イエスさまを偉い教師と思っていたからです。教えや自分自身を祝福して欲しい大人に、弟子たちが忖度してこどもを後回しや排除したことに、イエスさまが「違うだろう」と言ったわけです。

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