園長先生のコラム

♪ コラム 【 2013年8月号 】 「 私たちの隣人って誰 」

新約聖書のルカによる福音書10章25節~37節に「善いサマリヤ人のたとえ話」の記述があります。

「あるユダヤ人が旅先で強盗に襲われ半死半生になります。とおりがかった日ごろから尊敬される宗教家や高潔な民族の人は被害者を見ると避けて素通りしていきました。でも、日頃から仲が悪く軽蔑していたサマリヤ人が通りかかり被害者を見ると憐れに思い、手当介抱し宿屋に連れてゆき治療費まで出してくれた。」と言うたとえ話です。
イエスさまは問いかけます。
「誰が被害者の隣人になったか」
「あなたも同じようにしなさい。そうすれば、永遠の命を得られます」
というたとえ話です。

旧約聖書時代からのユダヤ教最大の掟は
『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』
でありました。しかしいいかえれば、ともすると隣人ではないものは愛さなくてもいいともとらえられます。そこで、「誰が隣人であるか」が問題となりうるのです。
ところが、イエスさまはこのたとえ話で驚くべき「新しい掟」の基準を示したと言えます。それは、
「隣人とは単に隣にいる人ではなく、時には敵や迫害する人も含まれる」
ということなのです。
そのような意味で、旧約聖書の時代からイエスさまの新約聖書時代への変化は劇的なものと思えます。

1963年(昭和38年)3月東京大学の卒業式において茅誠司学長が祝辞で
「さまざまな知識を持っているだけでは、百科事典を頭の中にかかえて歩いている人間にすぎません。その教養を社会人としての生活の中に、どの ように生かすかということが重要」
と位置付けて、「小さな親切」はやろうとすれば誰でもできることから始められると諭しました。この「小さな親切運動」は当時国民の大きな話題になったのを覚えています。

イエスさまは見知らぬ他人どころか常から敵視している人にも親切にすることこそが掟の中で一番大切なことといわれました。それは簡単なことではありません。
でも、茅学長がおっしゃったように「やろうと思えば誰でもできることから始められる」ものかも知れません。

1968年4月3日暗殺される前日のマルティン・ルーサー・キング牧師の言葉です。
「善きサマリヤ人の話の登場人物のうち避けて通った2人とはこう考えたに違いない」
「あの災難に遭った人を助けようとしたら私はどうなるだろう」
「そして、善いサマリヤ人はこう考えたに違いない」
「あの災難に遭った人を助けなかったら私はどうなるだろう」

すばらしい、夏休みをお送りくださいますようにお祈りいたします。

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・・ 聖句と今月のみことば ・・

「あなたがたも愛によって歩みなさい。」
エフェソの信徒への手紙 5章2節

今月の聖句は先月に引き続き、パウロの手紙からです。
1節では「神に愛されている子どもですから、神に倣うものとなりなさい」と諭します。
当時の修辞学の教師は、雄弁の学習は「理論」「模倣」「練習」にかかっていると断言しています。
「学ぶ」とは「真似る」ことともよくいわれます。しかし問題は模倣をどちらに向けるかです。
ここで、パウロは完全なる神に倣えというわけです。
パウロの述べている内容は「神に倣うものになりなさい。そしてあなた方が神に倣い、イエスが捧げた犠牲に倣いたいなら、イエスが全人類を愛されたと同じ犠牲的な愛をもって人々を愛し、神がなされたように愛をもって人々を赦すことによってのみ、神に倣うことができる」ということなのです。

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