園長先生のコラム

♪ コラム 【 2013年2月号 】

「 神に逆らう者は自分の暴力に引きずられて行く。正義を行うことを拒んだからだ。 」
箴言第21章7節

新年から悲しい報道が多すぎるような気がするのは、僕だけでしょうか。
ことに、アルジェリアで起きたテロとその鎮圧行動で犠牲になった方々を思うとやりきれない思いでいっぱいです。
思想や宗教、主義に主張等を行動で表そうとすることに暴力を使うことは結果的には良い解決法とは思えません。テロを行う側の言い分はいつも同じように聞こえます。
「我々はこうするしか方法がない。ここまで追い込んでいる側に責任がある」
また、テロと戦う国家は「我々は決してテロに屈しない。交渉もしない」悲しいですね。
国家や組織の思想の維持の前には、個人の生命の尊厳はどうなのでしょうか。

もうひとつ命の尊厳にかかわる問題があります。大阪市立桜宮高校で起きた「体罰」事件です。僕は「体罰」というのは「私刑(リンチ)」の一種と思います。だから、当事者の教諭はただの暴力をふるう犯罪者としか思えません。ただ悲しいことに、彼が暴力をふるうことが「教育」だと錯覚しているところです。
かわいいからこそ厳しく教育したと錯覚しているならなおさら自殺まで追いやってしまった責任を感じているのか疑問をもってしまいます。某有名体育大学出身の彼にはひょっとすると口利きで出身大学に入学させる力があったのでは・・?それで、学校側や家族、被害者本人も何か圧力を感じていたのはないかと勘ぐってしまいそうです。
いずれにせよ、人を殴ってスポーツの技術が伸びるわけがないことぐらいわからないのでしょうか。

僕が小学3年生の時、担任の教諭がとにかく体罰を楽しむ異常な性格でした。
足の不自由な女の子の腕をわしづかみにして「注射おどり」って名をつけクラスの皆の前で踊らせることが何度かありました。僕も教室の入り口の引き戸(当時は木造校舎で戸は引き戸でした)の敷居のレールの上に座らせられました。彼に言わせると当然その罰を受けるようなことをしたのだから、「因果応報」であるとのことでしたが、僕はどうしても、足の不自由な子が痛さに顔をゆがめて踊る姿を笑えることができないばかりか憤りが込み上げてきました。ついに限界が来て「こんな先生いらない」と学校側に訴え、PTAにもお願いしました。年度途中ではありましたがその教諭には、退職していただきました。
このことが学校の先生との「教育のあり方バトル」の始まりのような気がします。
先生が質問してきます。「この答、門脇わかるか?」「わかりません」「こんなこともわからないのか。では立ってろ!」「先生立っていれば、わかるようになるんですか。立つ理由を教えてください。」僕はこの頃から理屈をこね出したようです。

「フルメタル・ジャケット」(実弾という意味)という映画があります。
ベトナム戦争最中のアメリカ海兵隊の訓練そして、実戦配備されてゆく兵士の映画です。
その中で訓練期間、教官の言葉の暴力で人格が壊れてしまい、自殺する兵士がいました。
軍隊という暴力こそ頼みの綱の世界ですら暴力では強い兵士は作れないということではないでしょうか。

「強いということは、弱いものを守ること」であることをスポーツにおいても勉学においても
心に銘記したいものです。

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・・ 聖句と今月のみことば ・・

「おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです。」

新共同訳 エフェソの信徒への手紙 第4章16節

使徒聖パウロの神学に「体の神学」と言われる思想があります。個人が教会であるいは社会で働くのは、ちょうど体の各器官であるように目は目の働き、耳は耳の働きそれぞれがバラバラに働くのではなくお互いが大切に思いやり協力しあうとき素晴らしい働きができるというのです。そのように働いて成長してゆくのは神さまからの愛が必要だと説いています。

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