園長先生のコラム

コラム 【 2019年1月号 】 「 クリスマスに誰を拝むか 」

クリスマスの物語の中には東方の占星術の学者たちが「ユダヤ人の王」として生まれた方を「拝んだ」という記録があります。
3人の博士「ガスパル、メルキオール、パサザール」です。
教会の暦では1月6日の顕現日に読まれる箇所ですがクリスマスはキリストのマス、つまりキリスト(救い主)の礼拝という意味からクリスマスのテキストとして読まれています。
彼らは「星」に導かれてきたとあります。
旧約聖書の時代から「星」と「メシア(救い主)」との結びつきは深くメシアを訪ね旅するには星に導かれたのは至極納得するものです。その方が「ユダヤ人の王」であり東方のユダヤ人でない人々にとってさえ「王」つまり「世界の王・キリスト」を意味しています。
新約聖書冒頭マタイによる福音書をみると1章にキリストの系図があります。
ここで聖書を読むのを嫌になる人がいます。僕もその一人でした。
そこには実はイスラエルの歴史とその関連の中でのキリスト誕生の意味が書かれているのです。そして、よくよく読めば異民族の女性ことに遊女や、夫を殺された婦人が挙げられていてキリストの誕生は決してイスラエルの民族の栄光の文脈においてではなく、イスラエルに現れた人間の悲しみの中にあたえられた様子が示されているのです。
キリストの誕生は悲惨の経験の中にあってメシア(救い主)を待ち望む人々に対して神さまから与えられた恵みの出来事なのです。しかし、いずれにしてもクリスマスのテーマは「誰がまことの世界の王・メシアなのか」そして「誰を礼拝すべきか」という問題と言えます。聖書が示しているように当たり前のことですが幼子キリストを拝すべきであってときのユダヤの王であるヘロデ王ではなかったはずです。
「まことのメシアは誰で誰を伏し拝むべきか」
実はこのことはまさに現代的問題と言えると思うのです。
憲法改正問題や沖縄の米軍基地移転問題を考えるとき73年前の日本の戦争と敗戦について考えさせられるこの頃ですが、77年前にも日本人は「まことのメシアは誰で誰を拝むべきか」という問題で過ちを犯したのではないでしょうか。
拝んではならないものを拝んだ結果、外国と自国を破壊したのではなかったでしょうか。
宗教改革者マルティン・ルターは十戒の第1戒の説明で「他の神々を持ってはならない」の解説の中で「今あなたが、あなたの心をつなぎ、信頼を寄せているもの、それが本当のあなたの神なのである」と言っています。
戦後の日本人いや今の日本人は何に心をつなぎ、何に心の信頼を寄せているのでしょうか?
経済上の繁栄なのでしょうか、健康長寿なのでしょうか、それとも社会的メンツかも知れません。そうならそれが神々であると言えるのではないでしょうか?
そしてそれらは真の王、真のメシアの礼拝ではないと言えるでは?そこには本当の自由も、人間らしさも失われざるを得ないと思います。
ところで聖書では、当時のヘロデ王は不安を感じてキリストに対する殺意を抱いたとあります。
ヘロデはベツレヘムにいる2歳以下の男の子を皆殺しにしました。6000人とも言われています。この幼子たちは最初の殉教者と言えます。地上の偽りの王、偽りのメシアの性格を示しています。他方、幼子キリストは隠れたところに生まれそして人間の悲惨を経験し尽くします。そして、すべての人の犠牲となって十字架にかかります。
イエスさまは終始、全生涯を通してご自分の命より私たちの命と私たちの救いを大切になさったのです。このイエスさまの中に私たちの救いがあり、魂の根本における癒しがあると思うのです。
ヘロデを拝むかキリストを拝むかヘロデにひれ伏すかキリストにひれ伏すか自分が王であり続けるためには、あるいは主権が脅かされるとその不安から他者を殺すそのようなヘロデを拝み、支配され、抑圧され、しかもそのようなものに依存し続けるのかそれとも、ご自分の命を捧げて、他者を根本から癒し、生かしてくださる方「わが主、わが王」としてこの方に心をつなぎ、信頼を寄せて生きるかということです。
私たちは今、イエス・キリストを「わが主、わが王」として拝んでいます。
だからこそここに真の自由があると思うのです。あるいは、世の中にはヘロデもキリストも拝まないという方が居るでしょう。一切の宗教を信じないことが科学的と考えているのかも知れません。でも、そのときその人々は「自分の内にあるヘロデ」を知らねばならないと思うのです。不安のため他者を亡き者にするヘロデ的考え方「あいつさえいなくなれば」と思う心がそうなのです。ヘロデ的なものから自由になるということは「外なるヘロデ」だけでなく「内なるヘロデ」からも解放されることです。「外なるヘロデ」と「内なるヘロデ」それは「偶像」と「罪」と言えるのではないでしょうか?偶像と罪から自由になりそれらの支配と抑圧から自由になること、そして偶像と罪による自己破壊、他者破壊から自由になるためにはキリストの犠牲を必要としています。犠牲となってくださる方の誕生を必要としているのです。その方をひれ伏し拝むことによる自由を必要としているのです。信仰をもつということはこの「心を繋ぎ、信頼を寄せる対象の交代」を意味するのではないでしょうか。キリストが中心になること主人になることです。当然、価値意識の転換で生きがいが変わります。エルサレムのユダヤ教の律法学者は預言者の言葉を解き明かしメシア誕生はベツレヘムだと読み解きました。しかし彼らはなぜかキリストを拝みに行かなかったのです。律法学者はみ言葉を読みながらそれを頭で理解しながらその言葉によって動かされていなかったのです。東方の学者と正反対です。東方の学者たちは「星」をたよりに頼りない旅でもみ言葉に聞き従いました。しかしエルサレムの偉い学者たちはみ言葉が生活にならなかったのです。
私たちはそうあってはならないと思うのです。
キリストの誕生を知ったうえは、生活の変化が必要と思います。
私たちが清められるために犠牲になってくださる方の誕生を祝うのです。
イエスさまの誕生とはそのような自己の価値観の変革、生き方の見直し、人生の大転換のときと言えるのです。
どうか、すばらしいクリスマスをお迎えくださいますようお祈り申し上げます。

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・・ 聖句と今月のみことば ・・

「求めなさい。そうすれば、与えられる。」
~ マタイによる福音書7章7節 ~

イエスさまは「求めなさい」と言われる。私たちは神さまに「お願いする」ことがなんと多いことか。切に求めるというのは神さまを本当に信じ信頼することかも知れません。「出来れば、こうなればいいな」程度のことは「求めて」いることにならないのかも知れません。本当に必要なものを切に求めれば神さまは与えてくださるということなのでしょうね。

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