園長先生のコラム

コラム 【 2019年6月号 】 「 イエスさまの新しい掟」

復活されたイエスさまは昇天される前にお弟子さんたちに新しい掟を残されました。
キリスト教の中心となる掟で「私があなた方を愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい」という有名なみ言葉です。
これは旧約の時代の掟「自分を愛するように隣人を愛せ」と比べ、神の愛の中に人間を神さまが取り込んでくださったという点で、まったく新しい掟なのです。
イエスさまはまず「私があなたがたを愛した」と述べます。
イエスさまが愛した人間たちとは、当時最も軽蔑され、弱い立場に置かれた人たちでした。
使徒として選んだ人も普通の漁師やまた回心した罪人とされた人たちです。
自分たちを支配するローマの手先になって金儲けに走る徴税人や罪を犯さざるを得なかった女性や差別を受けていた人やユダヤ時以外の異邦人たちなどです。
こういう人たちのところにイエスさまは自ら近寄り、食事を共にし宿泊を頼みました。こうした態度が、いわゆる立派な人たちである道徳家たちの反発を招き十字架への道を開いていったことは間違いのない事実です。
イエスさまは虐げられる人の友となりました。しかしそれだけではありません。イエスさまは、自分を迫害し、呪う人たちにも、決して復讐しようとせず、祈っていてくださり、回心を願っておられました。
イエスさまは、自分を愛せなかった力ある者たちも、確かに愛し、赦し続けてくださっていたのです。
イエスさまの愛は、虐げられていたものに対しても、虐げるものに対しても、その両方に向けられていました。
そのイエスさまの同じ愛が今、時と空間を越え(何しろ復活したイエスさまは今も共にいるわけですから)、この「自分」という人間にも同じように迫っています
この自分もイエスさまから愛し抜かれた存在です。今私たちはイエスさまが訪れるに違いない苦しみや病いや困難を負っていれば困難や苦しみに遭遇していれば、それを抱える自分にこそイエスさまは訪れるはずです。
旧約聖書の教えは「あなたの神である主を愛しなさい」「自分を愛するように隣人を愛せ」ということ(マタ22:36以下)でした。自分のことしか考えられない自己中心的な人間が自分のことばかり優先してしまう。そのように隣人を大切にしなさい。
ここにはふたつ限界があります。それは人を愛する基礎が自分を優先するそのようにと言う点です。そして愛する対象が隣人に留まっていた点です(逆に言うと隣人でないものは愛さなくていいともいえます)。
ある時ユダヤ人学者がイエスさまに問題を出しました「隣人を愛せ?ならその隣人と誰?」。これに答えたのが「サマリア人のたとえ」です。
強盗にあって傷だらけになった旅人に、宗教権威者は通り過ぎた。しかしユダヤ人の敵であるサマリア人は手当てをしてくれたのです。

イエスさまは、問い掛けます。
隣人になったのは誰ですか。通り過ぎた祭司でしたか、助けたサマリア人でしたか。サマリア人です。なら誰が隣人かと問うのをやめ、進んで隣人に自分からなっていきなさい。どんどん人を愛していきなさい
ということなのです。

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